天草四郎物語

知れば知るほど魅力的な天草四郎。
そんな四郎に縁ある史跡や像が、ここ天草には多く残されています。
たとえば、当宿「四郎ヶ浜荘」の名前の由来になった「四郎ヶ浜」。
島原の乱の時、この周辺の海岸に四郎が上陸したと伝えられることから、「四郎ヶ浜」と名付けられたのです。
こうやって歴史に思いを馳せながら、縁の地を巡るのもまた面白いかもしれませんね。

天草四郎とは?

益田甚兵衛の長男として、ここ天草に生まれた江戸時代初期のキリシタンです。 長崎に渡り学問をしたことなどが知られ、大変聡明でカリスマ性があり、容姿端麗だったといわれています。
小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であるとされた経緯から、さまざまな奇跡を起こしたという伝説が残っています。 「島原の乱」の指導者で、原城に篭った四郎は、歯にお歯黒をし、髪を後ろで束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で洗礼を授けたり、説教を行ったりしたと記録されています。この時わずか、16歳。最期には幕府の攻撃による原城陥落により、自害したとされています。


天草の歴史

◆慶長6年(1601)

唐津城主の寺沢広高が旧小西領だった天草を統治。その際、定めた領内の石高が、耕地面積が乏しい天草にとってあまりにも過大な数値でした。これが、後の「天草・島原の乱」に影響していくことになります。

◆慶長18年(1613)

当時の天草・島原地方は、飢饉や重税とキリシタン弾圧に苦しみ、民衆の不満は頂点に達していました。その不満を抑えていたママコフ神父は、信仰を禁止された天草の民に向かって「25年後、16歳の天童が現れ、パライゾ(天国)が実現するであろう」と、民にとって希望となる預言を残したのです。

◆寛永11年(1634)

大凶作。それでも年貢の取立ては容赦がなく、火あぶりの刑や、生きたまま海に投げ込むなど、想像を絶するキリシタン信者の迫害が続きました。

◆寛永14年(1637)

予言から25年後、長崎留学から帰った天草四朗。彼こそが神の子の再来と噂されました。四郎の熱心な説教は人々の心を捉え、評判は瞬く間に天草・島原一帯に広まり、遂には一揆の総大将に押し立てられました。

◆寛永14年(1637)10月

年貢納入期を前に、四郎を総大将に、まずは島原で火の粉があがり、続いて大矢野町へ。一揆群は大島子(天草市)の戦い、町山口川(天草市)の戦いで勝利を収め、勢いに乗って富岡城(苓北町)を攻めますが、難攻不落、富岡城陥落をあきらめ、海を渡って原城へ向かいました。

◆寛永15年(1638)2月

原城に3ヶ月間篭城し奮闘しましたが、力の差は歴然。幕府軍に破れ、四郎は城で自害したといわれています。