益田甚兵衛の長男として、ここ天草に生まれた江戸時代初期のキリシタン。 長崎に渡り学問をした事などが知られ、大変聡明でカリスマ性があり、容姿端麗だったといわれています。 小西氏の旧臣やキリシタンの間で救世主として擁立、神格化された人物であるとされた経緯から様々な奇跡を起こした伝説が残っています。「島原の乱」の指導者で、原城に篭った四郎は、歯にお歯黒をし、髪を後で束ねて前髪を垂らし、額に十字架を立て、白衣を着た呪術的な格好で洗礼を授けたり、説教を行っていたと記録されています。この時わずか、16歳。最期には幕府の攻撃による原城陥落により自害したとされています。


慶長6年(1601) 唐津城主の寺沢広高が旧小西領だった天草を統治する。 その際、定めた領内の石高が、耕地面積が乏しい天草にとってあまりにも過大な数値でした。これが、後の 「天草・島原の乱」に影響していくことになります。